題:銀月の雫、あるいは無言の雄弁
巷に溢れる凡百の装身具なぞ、語るに値せぬ。金銀をただひけらかし、宝石をこれでもかと並べ立てたところで、それは持ち主の虚栄心を満たすだけの、魂の抜け落ちたガラクタに過ぎん。美というものは、本来もっと静かで、厳しく、そして雄弁なものだ。
さて、ここに一つの銀の耳飾りがある。スペインの作家、チェロ・サストレの手によるものだという。初めてこれを目にした時、小生は思わず息を呑んだ。これは単なる飾りではない。研ぎ澄まされた刃が放つ一瞬の閃光、あるいは、闇夜に浮かぶ三日月の、最も潔い一角を切り取ってきたかのような造形である。
この形を見よ。月の満ち欠け、波の満ち引き、生命の萌芽。森羅万象の内に潜む、最も根源的で力強い曲線を、作家は掌のうちで捉え、銀という素材に封じ込めたのだ。鋳型に流し込んで大量に作るような、安直な仕事ではない。銀の塊と対峙し、その声を聞き、あるべき形へと、ただひたすらに槌を振るい、磨き上げたに違いない。その表面に映る景色が、まるで生きているかのように歪み、揺らぐ様は、静謐な水面が風にそよいだかのごとき官能を宿している。
スペインという土地が、この作品に与えた影響も計り知れぬ。かの地は、ピカソやガウディといった、形骸化した美を打ち破る情熱の魂を生み出してきた。しかし、サストレの仕事は、彼らのような爆発的なエネルギーとは趣を異にする。むしろ、アンダルシアの強い陽光の下に生まれる、深く、濃い影。フラメンコの踊り子の、張り詰めた静寂の一瞬。そういった、情熱の裏側に潜む「静」の美学が、この銀の曲線には凝縮されているのだ。太陽の国の作家が、あえて月の冷たい光を選び取った。この逆説にこそ、芸術の深淵が隠されている。
歴史を紐解けば、古来より人間は、非対称なもの、不完全なものにこそ美を見出してきた。我が国の茶器における「歪み」や「景色」を愛でる心根も、これに通じる。完璧な円や四角にはない、見る者の想像力をかき立て、飽きさせることのない生命感が、この耳飾りにはある。左右で微妙に異なる表情を見せるこの一対は、互いを補い合い、一つの小宇宙を成している。
これを身に着ける者は、選ばれねばならぬ。着飾ることにのみ心を砕く婦女子には、この銀の沈黙の意味は理解できまい。自らの哲学を持ち、凛として立つ、一本の芯の通った人間。その者の耳元で、この銀月は初めて、真の光を放つのだ。それは、言葉以上に多くを語るだろう。多くを削ぎ落とした先にある、豊潤な精神性を。華美を求めずとも、内から滲み出る美しさこそが、至上のものであるということを。
このイヤリングは、単なる商品ではない。作家チェロ・サストレが、スペインの風土と歴史の中で育んだ美意識の結晶であり、使い手と共鳴することで完成する、未完の芸術品なのである。この価値を解する者だけが、手に取るがいい。さすれば、日々の暮らしの中に、一条の冷たくも美しい光が差し込むことを、小生が請け負おう。これは、用の美の極致。まさしく、身に着ける彫刻なのだ。