美は買ふものではない、探すものでもない。美は、そこにあるものだ。それに気づく眼を持つか、持たぬか。ただそれだけのことである。
巷に溢れる銀細工とやらを、私は好まぬ。ただ銀といふ素材に媚び、流行りの形にひねり、石を散らして人の目をくらます。そんなものは職人の仕事ではない、ただの商人の手遊びだ。まことの美とは、素材が本来持つ生命を、作り手の魂がどれだけ引き出せるかにかかっている。素材に阿ってはならぬ。素材を凌駕するほどの気概と哲学があって、初めて物は生命を宿すのだ。
この一対の銀片を初めて目にした時、私は思わず息を呑んだ。スペインの女史、名はチェロ・サストレといふらしい。会ったこともない作家だが、この作を見ればその人となりが透けて見える。これは、ただの耳飾りではない。銀といふ金属が秘めていた光と影の真髄を、無慈悲なまでに暴き出した、一つの事件なのだ。
見てみるがいい。長さ凡そ七十ミリ、幅十五ミリに満たぬ、細長く、そして重厚な銀の板。その表面は、ただ磨き上げられたといふ生易しいものではない。まるで静謐な冬の湖面が、そのままの冷たさと深淵を保ったまま断ち切られ、ここにあるかのようだ。周りの景色を映し込むが、決してそれと馴れ合わない。絶対的な孤独と、凛とした気品を保ち、観る者を寄せ付けぬほどの緊張感を孕んでゐる。この銀の肌を撫でれば、指先が凍てつくような錯覚に陥るだろう。これこそ、サストレといふ作家が銀に与えた「景色」に他ならない。
そして、この作の魂は、中央を貫く一閃の切り込みにある。
凡百の職人ならば、この完璧な長方形をそのまま使い、その均整の取れた美しさに安住したであろう。だが、サストレは違った。彼女は、完成された調和を、自らの手で、最も鋭利な角度で、断ち切ったのだ。この斜めの一線は、躊躇の欠片もない。まるで名工が玉鋼を打ち、焼き入れをするが如き、一瞬の、そして永遠の決断だ。この一太刀によって、銀の板は単なる形状であることをやめ、物語を始めた。
光はここで砕け、乱反射し、影はより一層深く、鋭くなる。静寂だった湖面に、突如として走った亀裂。それは破壊でありながら、同時に凄まCいほどの創造なのだ。穏やかな日常に差し込まれた非日常の閃光。予定調和な人生を根底から覆す、運命の出会ひ。この切り込みは、美の核心を突く哲学的な問いを我々に投げかけてくる。完璧とは何か。乱れの中にこそ、真の美は宿るのではないか、と。
重さ十六・四グラム。この重さを、心してほしい。昨今の軽薄な装飾品とは一線を画す、確かな存在感。これを耳に提げる者は、その日一日、この銀の持つ哲学と対峙せねばならぬ。それは、着飾るための道具ではない。身につける者の精神を試す、一種の踏み絵なのだ。このイヤリングに相応しい人間とは、自らの生き方に一本の筋を通し、安易な調和に甘んじない、孤高の魂を持つ者だけだ。
スペインの乾いた大地と、突き抜けるやうな青い空、そして闘牛士のひらめかすケープの如き、情熱と冷静が交錯するあの国の空気が、この小さな銀片に凝縮されてゐる。サストレ女史は、かの地の光と影を知り尽くしてゐるに違いない。凡庸な美に飽き飽きし、本質のみを求める美食家ならぬ「美識家」よ。この一対を手に取ってみるがいい。
これは、あなたのためのものか。それとも、あなたにはまだ早いか。銀は、冷たく、そして正直に、その答えを示すだろう。私の役目は、ここまでだ。物の価値は、持つ者が決める。