福岡市博物館 発行
2001年
約29.5x22.5x0.7cm
80ページ
※絶版
本図録は、平成十三年度福岡市博物館特別企画展「北条時宗とその時代展~蒙古襲来と博多」の別冊図録。
本図録では、福岡会場のみ特別に公開された、新安海底沈船引揚遺物(大韓民国・国立中央博物館所蔵)と、日本初公開の「聖ヘドビギス図画伝」Vita Beatae Hedwigis (アメリカ・ゲティ美術館所蔵)を紹介する。
異時同図の手法で描かれた図画伝の内容を、時間の流れに沿って一場面ずつ丁寧に解説。Vita Beatae Hedwigisは「シレジアの聖ヘドウィッヒの伝説」とも。
貴重な情報満載の史料・資料本です。
【ご挨拶】より
今年のNHK大河ドラマ「北条時宗」では、蒙古襲来の舞台、あるいは対外交沙の窓口として、博多が大きく取り上げられています。今から七百年程前、鎌倉時代の中頃、述くヨーロッパにまで版図を広げたモンゴルがニ度にわたり、博多を日指して対馬・壱岐・北部九州沿岸に襲来しました。この未曾有の対外的危機に、鎌倉幕府の第八代執権として真正面から立ち向かった人物が、本展覧会の主人公・北条時宗です。
時宗は、モンゴルの国書がはじめて到来した文永五年(1168)に弱冠十八歳で執権に就任し、三四歳で没するまで、モンゴル問題に苦慮しています。まさに時宗の半生は蒙古襲来とともにあったと言えましょう。
当時の博多は、古代以来の伝統を受け継ぎ、外国への窓口として栄え、国際貿易と国内流通の結節点として重要な役割を担っていました。蒙古の襲来にもかかわらず、鎌倉時代は大陸との国際交流が盛んに行われ、その窓口となったのはやはり博多でした。中国の文物は唐物として珍重され、博多を通して様々な文化・文物が将来されました。そのことを端的に示すのが大韓民国・国立中央博物館より特別に出品される新安海底沈船引揚遺物です。
至治三年(元亨三・1323)、中国・元の慶元(寧波)を出港し、博多を目指しながら、朝鮮半島西南の新安沖で沈没した船に積まれていたものです。
また、蒙古襲来は、市内各地に元寇防塁をはじめとする元寇関連史跡が点在しますように、地元・福岡の歴史にとって深い関わりのある事件ですが、これは狭く郷土史の枠内に止まるものではありません。世界各地を席巻した蒙古襲来の一つであったのです。アメリカ・ゲティ美術館から出品される「聖ヘドビギス図画伝」は、ヨーロッパの蒙古襲来を描いたもので、我々の目を広く世界へと導いてくれることでしょう。本展覧会において、我が国ではじめて公開される史料です。
この展覧会では、海外からの出品史料をはじめ、国宝4件・重要文化財40件を含む貴重な史料を駆使し、博多を舞台とした蒙古襲来や当時の国際関係、そして北条時宗の生きた鎌倉時代の社会のあり様を紹介します。
【目次】
ご挨拶
凡例
巻頭論文
蒙古襲来と博多 川添昭二
図版・解説
第一部 新安海底沈船引揚遺物~博多をめざした国際貿易船~
第二部 聖ヘドビギス図画伝~ヨーロッパの蒙古襲来~
論文
新安海底沈船とその引揚遺物 宮井善朗
世界史のなかの蒙古襲来 堀本一繁
市内にのこる元寇関連史跡マップ
蒙古襲来関係文献目録 川添昭二編
英文リスト
謝辞
【蒙古襲来と博多 川添昭二】より一部紹介
一 蒙古襲来の原因
「蒙古製来」というのは、狭くは文永十一年(1274)と弘安四年(1281)の二度にわたる蒙古(元)の日本に対する侵攻を指す。蒙古襲来の日本に対する影響の広範さなどから、広く鎌倉後期史を指す用語としても使われている。普通「元寇」という用語が使われているが、中世では見られない用語で、水戸藩の『大日本史』本紀での使用例をはじめ、近世に入って熟した用語である。蒙古製来当時は「異国(異賊)襲来」とも言われているが、これ以前にも使われている用語である。文永・弘安の役というのも蒙古襲来当時の用語としては「蒙古合戦」であり、それに文永十一年・弘安四年などが冠せられている。
蒙古襲来の問題で肝心なことは、襲来の原因である。それが「蒙古製来と博多」の発端にもなる。元が日本に招諭を試み、渡洋遠征をした理由については、第一次と第二次とでは、共通継続する点もあれば、異なる点もある。
第一次は、高麗支配の強化をあわせながら、日本と南宋の親密な関係を断ち切り、南宋を攻略する一環として行った。第二次は、南宋を完全に征服し、降服した旧南宋軍事力を日本遠征に転用して統治の安定化をはかり、高麗支配のさらなる強化を背景に、日本への使臣の斬殺を名目として、日本の土地と人の略収をめざしたのである。日本は、戦闘を属性とする武士を束ねている鎌倉幕府が、蒙古を侵略者とする認識のもとに、第一次・第二次の段階共に武断的対応をした。蒙古が国交上重視する使臣派遣の形式など、日本ではその認識はあまりなかったようである。これが、明治以後ことに喧伝される「元寇」=「国難」の起点であり、博多が蒙古襲来対応の前線基地となる発端でもあった。
二 博多津警固の始まり
文永五年(1281)正月、事実上の服属を迫る蒙古の国書が到来した。ただちに幕府は御家人に異国用心を命じた。
讃岐関係の史料しか残っていないが、九州関係があったことは確かであろう。蒙古は使節派遣を重ねるが日本は応じなかった。文永八年、日本に救援を求めてきた高麗の反蒙古・反政府の軍である三別抄がもたらした蒙古の日本来攻の情報をもとに、幕府は九州に所領を持つ御家人に、九州に赴いて、異国防御と所領内の悪党を鎮圧するよう命じている。その直後、元からの使臣趙良弼ら百余人が今津(福岡市西区)に着いている。
翌文永九年二月、幕府は大友頼泰に、東国の御家大たちが九州に到着するまでの間は、筑前・肥前の要害を守備するよう命じた。博多がその中心的な役割を果たすことは言うまでもなく、薩摩の御家人比志島佐範が同年六月ニ十四日から一ヶ月間、博多の異国警固をし、同年八月、同じく薩摩の御家人平弘純が博多の異国警固番役を勤めている。(後略)
【新安海底沈船とその引揚遺物】より
1975年、全羅南道新安郡智道面に属する海域で操業し
ていた漁船の網に、中国製の青磁・白磁六点が掛かって引き揚げられたことをきっかけに、新安海底に中世の貿易船が沈んでいることが明らかとなった。韓国文化財管理局による調査が翌1976年から行われ、1984年10月まで10次に及ぶ調査が行われた。
海域は深さ約20m、小島が散在するため潮の流れが速く、また潮汐差も大きい。そのため視界が暗く、作業は困難を極めた。加えて韓国で最初とも言える水中調査であり、文化財管理局では海軍のダイバーを要請して潜水作業を行ったのである。
引き揚げられた船体は長さ約34m、最大幅約11m、型
深3.7mに復元されている。断面方形の竜骨を持つ尖底船で、積載重量は約200tと推定されている。船内は隔壁により、8区に分割されている。
引き揚げられた遺物は陶磁器、銅銭がほとんどであるが、その他に金属器や石製品、香辛料、紫檀の原木なども積み込まれていた。その種類は42件62種に及ぶ。
これらの遺物は主に中国で調えられ、博多に向けて送り出された商品である。品物は木箱や木桶に整然と梱包され、発注者を示す荷札(木簡)が付されていた。その中には京都の禅寺である「東福寺」や、その末寺で博多における貿易拠点である承天寺の塔頭「釣寂庵」、あるいは「筥崎」と書かれたものがあり、この船が東福寺・承天寺・筥崎宮の造営料唐船であったことを示す。
木簡には出港時期を示す「至治三年」もあり、この船が、至治三年(1323)、元の慶元から博多を目指して出港した後、何らかの理由で高麗南西端まで流され、難破したものと考えられる。
【ヨーロッパの蒙古襲来】より
人類史上最大の版図を実現したモンゴル帝国。モンゴル軍は、文永十一年(1274)、弘安四年(1281)と二度ににわたり対馬・壱岐や博多等に襲来したが、蒙古襲来は日本だけのことではなかった。
モンゴルの騎馬軍団は、ユーラシア大陸を疾駆し、遠くヨーロッパにまで進攻した。第二代皇帝オゴタイ=ハンの命を承けたバトゥ(チンギス=ハンの孫)は、大軍を率い南ロシアを攻略すると、その一部隊がポーランドに進出した。1241年4月9日、レグニツァ城の郊外、ワールシュタット平原において、シレジア公ヘンリクス(ハインリヒ)Ⅱ世が率いるドイツ騎士団・ポーランド連合軍と激突した。モンゴル軍は圧倒的な強さでヨーロッパ騎士軍を打ち破ったのである。
この戦闘の模様を描いたのが、ここに紹介する「聖ヘドビギス図画伝」である。聖女ヘドビギス(1174~1243)は、現在のポーランド南西部を主要地域としてドイツやチェコに一部広がるシレジア(シロンスク、シュレージェン)地方を領したシレジア公ヘンリクス(ハインリヒ)I世の公妃で、本書は彼女の生涯を綴ったものである。
敬虔なキリスト教徒であった聖女ヘドビギスは、幾多の苦難に遣いながらも、公領内に多くの宗教施設を創立するなど、キリスト教の教えに深く帰依した女性であった。その苦難の一つが、息子のヘンリクスⅡ世がモンゴル軍の猛攻に遣い、非業の死を遂げたことであった。「聖ヘドビギス図画伝」11葉裏・12葉表の見開き頁に描かれた四面の図が、ヨーロッパを震撼させたワールシュタットの戦い(レグニツァの戦とも)の模様である。これは、言うなれば、”ヨーロッパ版蒙古襲来絵詞“である。
モンゴル軍をThartarisと表記しているが、これはモン ゴル族の一部であるタタール人(Tatar)とラテン語の「地獄の」「恐ろしい」を意味するTartareusを合成したもので、ヨーロッパの人のモンゴルに対する恐怖感を端的に表現している。
【聖ヘドビギス図画伝】
シレジア(現ポーランド)1353年
縦34.1cm横24.8cm
ヴェラム装羊皮紙(豚皮)204紙葉1冊
ペン書テンペラ画
聖女ヘドビギスの生涯を挿し絵入りで記述した伝記。著者不詳。この中に、1241年4月9日、ワールシュタッ卜(レグニツァ)の戦において、ヘドビギスの息子シレジア公ヘンリクス(ハインリヒ)Ⅱ世が率いるドイツ騎士団・ポーランド連合軍が、モンゴル軍と戦闘し、大敗北を喫した様子が描かれている。四つの画面の中に異時同図の手法を用いて、戦闘開始の場面から、ヘンリクスⅡ世の戦死と昇天、レグニツァ城の攻防、息子の戦死を夢の中で知る母ヘドビギスの様子を描き、一連のストーリーを構成する。本図録40~49ページにおいて、時間の流れに沿って概説した。
本書は、ヘンリクスⅡ世の五世孫に当たるレグニツァ・ブリク公ルドビクス(ルードヴィヒ)Ⅰ世と公妃アグネスの発願により、シレジア(現ポーランド)において制作された中部ヨーロッパ装飾写本の傑作である。装丁は制作時のもので、表紙はオーク材の板を赤く染めた豚皮で覆っている。表紙の四隅に鷲と獅子をかたどった飾り金具を対角に配し、中央に「S.HETWYGIS十」と刻んだ金具が付く。
【聖ヘドビギス図画伝】各解説一部紹介
1241年4月9日、モンゴル軍と対峙するドイツ騎士団・ポーランド連合軍。
これを指揮するのが、中央の白馬にまたがったシレジア公ヘンリクス(ハインリヒ)2世である。彼の側には、鷲の旗が空高くたなびいている。ワールシュタット平原において、いよいよモンゴル軍との決戦が始まろうとしている。
シレジア公ヘンリクス2世は、羽根飾りの付いた冑を被り、騎士たちの中でもひときわ目立つ。冑や楯には家の紋章である鷲が堂々と描かれている。
モンゴル軍の猛攻にヨーロッパ騎士軍は次第に圧倒されていく。
モンゴル兵は刃を振い、目には剣を突き剌す。凄惨な戦いが繰り広げられた。ヨーロッパ騎士軍は次々と討たれていった。
なかには馬上で息絶えた騎士もいた。
戦闘に勝利し、空高く翻るモンゴル軍の旗。
地に堕ちたヘンリクス2世の鷲の旗。戦いはヨーロッパ騎士軍の大敗北に帰した。
ほか
【協力】
壱岐神社
岡崎敦
川添昭二
宮内庁三の丸尚蔵館
ゲティ美術館(アメリカ)
元寇史料館
興徳寺
国立海洋遺物展示館(大韓民国)
国立光州博物館(大韓民国)
国立中央博物館(大韓民国)
佐伯弘次
佐藤一郎
志賀海神社
しかのしま資料館
柴田和俊
承天寺
聖福寺
勝立寺
住吉神社
西南学院大学
日蓮聖人銅像護持教会
野の花学園
宮崎宮
波多野聖雄
本佛寺
(五十音順・敬称略)