小説「アステリズムの涙」
登場人物
水瀬 莉奈(みなせ りな) - 28歳。記憶を修復・編集する「記憶修復師(メモリー・ドクター)」。若くしてその才能を認められているが、5年前に亡くした母・遥(はるか)の記憶を失ったトラウマを抱えている。冷静沈着で仕事熱心だが、内面には深い喪失感を隠している。
月城 圭(つきしろ けい) - 32歳。巨大技術企業「クロノス・ダイナミクス」のエース研究員。莉奈の母、遥の元で学んだ過去を持つ。目的のためなら手段を選ばない冷徹なリアリストだが、その瞳の奥には遥への複雑な思慕と、ある焦燥が渦巻いている。
水瀬 聡(みなせ さとし) - 65歳。莉奈の祖父。都心から少し離れた場所で、オーダーメイド専門の宝飾店を営む熟練の職人。遥が遺したリング「アステリズム」を莉奈に託す。記憶技術に対して懐疑的で、莉奈の身を案じている。
水瀬 遥(みなせ はるか) - 享年40歳。莉奈の母であり、記憶転写技術の根幹を築いた天才科学者。研究中の事故で他界したとされている。優しさと、科学への純粋な探求心、そしてある秘密を胸に秘めていた。
第一章:蒼穹の瞳
令和88年、東京。街はナノテクノロジーによって浄化された空気に満たされ、空には巨大な情報スクリーンがオーロラのようにたなびいている。人々は生体デバイスを通じて常にネットワークに接続され、経験や記憶でさえ、デジタルデータとして保存・共有できる時代。しかし、その技術はまだ完璧ではなかった。データは時として破損し、人の心を蝕む「記憶バグ」となる。
水瀬莉奈は、そんな壊れた記憶を修復する「記憶修復師」だ。彼女の仕事場は、銀座の片隅にあるアンティーク調の小さなオフィス。最新鋭のダイブ機器と、古いアナログ時計が同居するその空間で、莉奈は他人の思い出の海に潜り、失われた感情の欠片を紡ぎ合わせる日々を送っていた。
「莉奈、少し早いけど、誕生日おめでとう」
ある日の夜、祖父の聡がオフィスを訪れた。古風な桐の箱を、そっとテーブルの上に置く。来週で29歳になる。母が亡くなった事故から、もうすぐ5年が経とうとしていた。
「おじいちゃん…ありがとう」
箱を開けると、ベルベットのクッションの上に、息を呑むほど美しいリングが鎮座していた。深い海の青を閉じ込めたような、大粒のブルートルマリン。その中央には、まるで猫の瞳孔のように、一本の白い光条がくっきりと浮かび上がっている。石を取り巻く18金の細工は、寄せては返す波のように滑らかで、小さなダイヤモンドが水飛沫のように煌めいていた。
「お母さんが、君が29歳になったら渡してくれ、と。…名前は『アステリズム』。あの子がそう呼んでいた」
アステリズム。星々の並びが作る形。莉奈はリングを手に取った。ずしりとした重みが心地よい。指にはめると、まるでずっと前からそこにあったかのように、しっくりと馴染んだ。その瞬間、キャッツアイの光が、ふわりと揺らめいたように見えた。
『…きれいな目…あなたも、きっとこの空の色が好きになるわ…』
「え…?」
優しい女の声。断片的で、ノイズ混じりの映像。腕に感じる柔らかな温もりと、陽だまりの匂い。それは、莉奈が今まで一度もアクセスできなかった、自身の幼い頃の記憶。そして、5年前に失ったはずの、母・遥の声だった。
ハッと我に返ると、目の前には心配そうに顔を覗き込む祖父がいた。「どうした、莉奈。顔色が悪いぞ」。莉奈は自分の指に光るリングを見つめた。ただのジュエリーではない。この石には、何かが宿っている。母の、記憶の欠片が。
翌日、莉奈は自らの記憶領域にアクセスを試みた。母に関するデータは、事故があったあの日を境に、綺麗に欠落している。専門家である自分自身でさえ、修復不可能なほどの完全なロスト。だが、昨夜リングに触れた時に感じたあの感覚は、確かに母のものだった。
莉奈はオフィスにある最高精度の解析装置にリングをセットした。鉱物としての成分、構造、全てが最高品質であること以外、特異な点は見当たらない。だが、微弱な生体エネルギーを照射した瞬間、モニターに信じられない波形が映し出された。デジタル信号ではない。人間の脳波…それも、深い情動を伴う記憶が発する特有のパターンと酷似していた。
「…アナログな記憶媒体?そんな技術、まだ確立されていないはず…」
その時、オフィスのドアチャイムが鳴った。入ってきたのは、長身の男だった。非の打ち所がない上質なスーツを着こなし、理知的な光を宿す瞳が、真っ直ぐに莉奈を射抜く。
「水瀬莉奈さん。クロノス・ダイナミクスの月城圭と申します。少し、お時間をいただけますか」
月城圭。その名前は、記憶技術界で知らぬ者はいない。不可能と言われた長期記憶の完全保存を成し遂げ、業界の寵児となった男。そして、かつて母・遥の研究室に在籍していた、一番の弟子。
「月城さん…どうして、ここに?」
「君が持っているはずのリングについて、話がしたい」
月城の視線が、莉奈の左手に留まる。アステリズムが、まるで警戒するかのように、その光を揺らした。
「それは、水瀬遥先生が最後に遺した研究成果。未完成の、そして…あまりにも危険なプロトタイプだ」
「危険…?これは、母の形見です」
「形見、か。そう思いたい気持ちはわかる」
月城は冷ややかに微笑んだ。「だが、それはただの石じゃない。人の記憶を、魂ごと吸い上げる『器』だ。先生は、記憶の永遠性を証明しようとしていた。その石は、先生自身の記憶と思考を保存した、いわば生体ハードディスクそのものなんだよ」
信じがたい話だった。だが、昨夜の体験が、彼の言葉に奇妙な真実味を与えていた。莉奈の心臓が、不安と、そして微かな期待に高鳴る。もし、本当に母の記憶がここにあるのなら。もう一度、母に会えるかもしれない。
「単刀直入に言おう。そのリングを、我々に譲渡してほしい。もちろん、相応の対価は支払う。先生の研究を完成させ、人類の未来に貢献するためだ」
「お断りします」
莉奈は、きっぱりと答えた。月城の眉が、わずかに動く。
「これは、母が私に遺してくれたものです。誰にも渡しません」
「感傷的になるのはやめたまえ。君には扱いきれない代物だ。下手をすれば、リングに保存された強大な記憶に、君自身の意識が乗っ取られることになる」
月城の言葉は、脅しとも警告ともついた。彼の瞳の奥に、莉那は焦りのような色を見る。なぜ、彼はこれほどまでにこのリングを欲するのか。
「お引き取りください」
「…後悔するなよ、水瀬さん」
静かに告げ、月城はオフィスを去っていった。嵐が過ぎ去ったような静寂の中、莉奈はアステリズムを握りしめた。リングは、ひんやりと冷たい。だがその奥で、確かな熱が脈打っているようだった。
母は、何を遺そうとしたのか。この石に、何を託したのか。失われた記憶の真実を知るため、莉奈は、誰にも頼らず、たった一人でこの蒼い瞳の謎に挑むことを決意した。それは、自らの魂の根源を探す、危険な旅の始まりだった。
第二章:記憶の残響
月城が去った後、莉奈は再びリングと向き合った。彼の言葉が頭から離れない。「意識が乗っ取られる」。それは記憶修復師として、最も恐れるべき事態だった。クライアントの記憶に深く同調しすぎた結果、自我の境界が曖昧になり、精神の迷子となる。過去に何人もの同業者が、そのリスクに心を壊されていった。
(でも、これは母さんの記憶…)
危険を承知の上で、莉奈はオフィスに常備している簡易ダイブ装置を起動した。医療用ではなく、あくまで記憶データの波形を視覚化し、編集するための業務用マシンだ。左手にリングをはめ、ヘッドギアを装着する。目を閉じると、意識がゆっくりと覚醒状態から離れていった。
目標は、リングが発する未知の信号への同調。デジタルデータではない以上、通常のプロトコルは通用しない。莉奈は自らの記憶修復師としての全技術を使い、意識のチューニングを試みた。まるで、ラジオの周波数を合わせるように。ノイズの合間に、遠い声を探すように。
数時間が経過しただろうか。諦めかけたその時、ふいに意識が強い力で引きずり込まれた。
そこは、見覚えのない研究室だった。白衣を着た人々が忙しなく行き交い、壁一面のモニターには複雑な数式が流れている。そして、その中央に、母・遥がいた。莉奈の記憶にあるよりも、ずっと若々しく、情熱的な光を瞳に宿している。
『…違う、これじゃない。データとしての完璧な保存では意味がないの。私が残したいのは、感情のテクスチャ…温もりや、切なさ、そういう揺らぎそのものなのよ』
遥が、隣に立つ若い研究員に語りかけている。その研究員は、驚くほど若い頃の月城圭だった。彼は、羨望と、そしてわずかな戸惑いが入り混じった表情で遥を見つめている。
『先生、しかしそれでは科学的な再現性が…。感情は定量化できません』
『だから、この石を使うのよ、月城君』
遥が手にしているのは、まだ金細工が施される前のアステリズムの原石だった。磨かれたばかりの、ただの青い石。
『このトルマリンは、特殊な結晶構造を持っている。人の強い思念…特に、愛情や悲しみといった根源的な感情に共鳴し、その波形を内部に記録するの。デジタル信号を介さずに、直接、魂の響きを写し取るのよ』
遥の言葉は、まるで詩人のようだった。科学者でありながら、彼女はどこかロマンチストなのだ。莉奈は、その光景をただ呆然と眺めていた。これは、誰の記憶? 母自身の? それとも、このリングが吸い取った、過去の情景?
場面が変わる。夕暮れの公園。幼い莉奈が、ブランコから落ちて泣いている。駆け寄ってきた遥が、優しく膝の砂を払い、莉奈を抱きしめる。
『痛いの、痛いの、飛んでいけ』
その声、その温もり。莉奈は、忘れていたはずの母の腕の感触を、あまりにもリアルに感じていた。涙が溢れそうになる。これは、私の記憶だ。私が失ったはずの、母との時間。リングは、母の記憶だけでなく、かつて母と触れ合った私の記憶にも共鳴しているのだ。
だが、幸せな光景は長くは続かなかった。再び場面が転換する。深夜の研究室。遥は一人、苦悩の表情でアステリズムを見つめている。
『ダメ…これではダメよ…。これは、記憶を保存する装置じゃない。魂を…閉じ込める檻になってしまう…』
遥の目から、一筋の涙がこぼれ落ち、アステリズムの石の上に落ちた。その瞬間、リングが禍々しい光を放ち、莉奈の意識は激しい頭痛と共に現実へと引き戻された。
「はっ…はぁっ…!」
ヘッドギアをむしり取るように外す。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝っていた。「魂を閉じ込める檻」。母は、一体何を恐れていたのか。月城が言っていた「研究の完成」とは、この「檻」を完成させることなのだろうか。
疑念が確信に変わり始めていた。母の事故死は、本当にただの事故だったのだろうか。この危険な研究を、誰かが、あるいは母自身が、意図的に葬ろうとしたのではないか。
莉奈は祖父の宝飾店へ向かった。古い木の扉を開けると、金属と油の匂いが鼻をくすぐる。作業台でルーペを覗き込んでいた聡は、莉奈の顔を見るなり、すべてを察したような顔をした。
「…見たのか。あの石の中を」
「おじいちゃん、知ってたの? このリングが何なのか」
聡は、深くため息をついた。「遥に口止めされていてな」。彼は、ゆっくりと語り始めた。
「あの金細工は、ただの飾りじゃない。遥が設計した、一種の制御装置だ。石が記憶を暴走させた時に、装着者の精神を守るための、いわば安全弁のようなものだ。…だが、それも完璧じゃない」
「どういうこと?」
「遥は、自分の研究がクロノス・ダイナミクス…特に、月城君に利用されることを酷く恐れていた。彼は才能があったが、同時に危うい野心を抱えていたからな。彼は、人の心をデータとして完全に制御できると信じている。遥は、その傲慢さが、取り返しのつかない悲劇を生むと警告していた」
聡の話は、莉奈の中でバラバラだったピースを繋ぎ合わせていく。母は、自らの研究の危険性に気づき、それを止めようとしていた。そして、その研究の鍵であるアステリズムを、制御装置であるリングケースに収め、最も信頼できる聡に託し、いつか娘である莉奈に渡すよう言い遺したのだ。
「あの子は、このリングに自分の全ての記憶を遺したわけじゃない。あの子が本当に遺したかったのは、たった一つの、純粋な感情だ。だが、その過程で、意図せずして研究のデータや、苦悩の記憶まで写し取られてしまったんだろう」
「本当に遺したかったもの…?」
「それは、莉奈。お前自身が見つけなければならないことだ」
祖父の言葉は重かった。莉奈は、母の遺した想いの深さに、改めて胸を打たれる。これは、単なる記憶の謎解きではない。母が命を懸けて守ろうとしたものを、今度は自分が受け継ぎ、守り抜かなければならない。
その決意を固めた時、莉奈のスマートフォンが着信を告げた。表示されたのは、勤務先である記憶修復オフィスの名前。緊急の依頼だという。
「水瀬君か。至急、対応してほしい案件がある。クライアントは、クロノス・ダイナミクスの月城圭氏だ」
電話口の上司の声に、莉奈は息を呑んだ。月城が、クライアントとして、記憶の修復を依頼してきた。これは、偶然だろうか。それとも、彼の新たな罠なのだろうか。莉奈は、指に光るアステリズムを強く握りしめた。戦いの舞台は、整えられた。
第三章:偽りのパラダイス
莉奈が指定された場所は、クロノス・ダイナミクスの本社ビル最上階にある、月城のプライベート・ラボだった。無機質な白で統一された空間に、最新鋭のダイブ・システムが鎮座している。ガラス張りの壁の向こうには、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっていた。
「待っていたよ、水瀬さん」
月城は、白衣姿で莉奈を迎えた。その表情は、先日オフィスで会った時のような冷徹さはなく、どこか疲れているように見えた。
「依頼内容を伺います」
「…妹の記憶を、修復してほしい」
月城がおもむろに見せたのは、一人の少女のホログラム映像だった。明るい笑顔で、ひまわり畑の中に立つ、快活そうな少女。
「妹の、美咲だ。7年前に病気で亡くなった。私は、クロノス社の技術を使って、彼女の記憶をデジタル保存している。いつでも、こうして彼女に会うことができる。…だが、最近、そのデータにノイズが走り始めた」
月城は、苦々しげに言った。彼が作り上げた記憶の中の楽園(パラダイス)に、綻びが生じ始めているのだ。
「最高の技術でプロテクトしているはずなのに、記憶の中の彼女の笑顔が、時々、歪むんだ。まるで、何かを訴えるように…」
「記憶の持ち主が、既に故人である場合、修復は極めて困難です。参照すべきオリジナルの脳が存在しないのですから」
「わかっている。だから、最高の記憶修復師である君を呼んだんだ」
その目は、本気だった。妹への執着。それこそが、彼を記憶技術の研究へと駆り立てた原動力なのかもしれない。莉奈は、彼の依頼を引き受けることにした。彼の記憶の海に潜れば、母の研究を巡る真実や、彼がアステリズムを狙う本当の理由がわかるかもしれない。
莉奈は、ラボのダイブ・システムに接続した。月城が見守る中、意識を彼の記憶データへと潜行させる。
そこは、完璧に再現された、夏の日のひまわり畑だった。空はどこまでも青く、太陽は暖かく、風が頬を撫でる。そこに、映像で見た少女、美咲がいた。
『お兄ちゃん!』
美咲は、屈託のない笑顔で莉奈(の意識体)に駆け寄ってくる。月城が、どれほど妹を愛し、この思い出を大切にしているかが痛いほど伝わってくる。莉奈は修復師として、この記憶空間の構造を分析し始めた。一見、完璧に見える世界。だが、注意深く観察すると、微細な歪みがあちこちに見つかった。ひまわりの花びらの数が一枚だけおかしかったり、遠くで聞こえるセミの声が、不自然にループしていたり。
そして、何よりも奇妙なのは、美咲自身の振る舞いだった。彼女は、月城が望む「完璧な妹」を演じているようだった。その笑顔には、生身の人間の持つ、微細な感情の揺らぎが欠けている。まるで、精巧に作られた人形のようだ。
莉奈は、美咲に話しかけた。
「美咲ちゃん、何か、困っていることはない?」
『ううん、何もないよ!お兄ちゃんとずっと一緒にいられて、私、幸せ!』
その言葉を発した瞬間、美咲の笑顔が、ほんの一瞬、ノイズが走ったように歪んだ。莉奈は、その歪みの奥に、悲しそうな、何かを助けを求めるような瞳の色を見た気がした。
この記憶は、月城の願望によって歪められている。彼は、妹を失った悲しみを受け入れられず、記憶の中で「永遠に幸せな妹」を創り出し、そこに閉じこもっているのだ。しかし、故人の記憶とはいえ、元は生きた人間の魂。その魂が、作られた楽園の中で、悲鳴を上げている。それが、データ破損の正体だった。
(このままじゃ、彼の精神も危ない…)
莉奈は、修復の糸口を探して、さらに記憶の深層へと潜った。すると、ひまわり畑の片隅に、不自然な黒い染みのような空間があるのを見つけた。月城自身が、無意識に蓋をしている領域。おそらく、彼が最も見たくない記憶。
莉奈がその領域に触れようとした瞬間、ひまわり畑の世界全体が激しく揺れた。
『そこには、触らないで!』
美咲が、今まで見せたことのない、絶望的な表情で叫んだ。同時に、現実世界の月城からも、ダイブシステムを通じて警告が飛んでくる。
「何をしている!そこから先は、私のプライベートな領域だ!」
「ここを開放しない限り、本当の修復はできません!」
莉奈は、月城の抵抗を振り切り、黒い領域へと意識を集中させた。空間が歪み、ひまわり畑が崩れていく。そして、莉奈の目の前に現れたのは、病院の、無機質な一室だった。
ベッドの上で、痩せた美咲が、苦しそうな息をしている。傍らで、若い月城が、必死に彼女の手を握っていた。
『お兄ちゃん…ごめんね…もう、一緒にお出かけ…できないや…』
『そんなこと言うな!僕が、絶対に治してやる!僕が、新しい技術で、美咲が永遠に生きられる世界を作ってやるから!』
『ううん…いいの…。私、楽しかったよ…。お兄ちゃんと過ごした時間…それだけで、幸せだったよ…。だから…お兄ちゃんは…私のこと…忘れて…ちゃんと、前を向いて…生きて…』
それが、美咲の最後の言葉だった。月城は、妹の死を受け入れられなかった。彼は、彼女の最後の願いを、「忘れて、前を向いて生きて」という言葉を、聞かなかったことにしたのだ。そして、彼女の記憶をデジタル化し、自分の理想の妹として、記憶の中に閉じ込めた。
その真実が、月城自身の記憶の中から、奔流となって莉奈に流れ込んでくる。同時に、莉奈の指にはめられたアステリズムが、強い光を放ち始めた。リングが、月城の悲しみと、記憶の中の美咲の魂の叫びに、激しく共鳴しているのだ。
『助けて…』
リングを通して、莉咲の心に、直接、声が響いた。それは、作られた美咲ではなく、その奥にいる、本当の美咲の魂の声だった。
莉奈は、月城に語りかけた。ダイブシステムを通じて、意識の最も深い場所で。
「月城さん、聞こえますか。これが、真実です。美咲さんは、あなたに感謝していた。そして、あなたの未来を、幸せを、誰よりも願っていた。彼女を、偽りの楽園から解放してあげてください」
現実世界で、月城はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らしていた。長年、目を背け続けてきた真実と、向き合ったのだ。
莉奈は、記憶の中で、泣きじゃくる月城の背中を、そっと撫でた。その時、ひまわり畑が、優しい光に包まれていく。作られた美咲の姿が、ゆっくりと透き通っていき、最後に、穏やかな笑顔を月城に向けた。
『ありがとう、お兄ちゃん。大好きだよ』
そう言って、光の粒子となって消えていった。偽りの楽園は崩壊し、後には、静かな哀しみと、そして、温かい解放感だけが残った。
意識を現実に戻した莉奈の目の前で、月城は呆然と座り込んでいた。彼の瞳からは、大粒の涙が止めどなく流れていた。
「私は…間違っていたのか…」
「あなたは、妹さんを深く愛していた。それだけです。でも、本当の愛は、相手を記憶の中に縛り付けることじゃない」
莉奈の言葉に、月城は何も答えられなかった。
その時だった。けたたましい警報音が、ラボに鳴り響いた。
「なんだ!?」
「外部からの不正アクセスです!最高レベルのセキュリティが破られました!」
モニターに、武装した男たちがビルに侵入してくる映像が映し出される。彼らの目的は、明らかだった。
「…アステリズムだ」
月城が、忌々しげに呟く。
「クロノスの上層部が、私の知らないところで動いていたらしい。彼らは、あのリングを兵器として転用するつもりだ。人の記憶を支配し、コントロールする、究極の精神兵器としてな…」
母が恐れていた、最悪のシナリオ。それが、今、現実になろうとしていた。侵入者たちの足音が、すぐそこまで迫ってきていた。
第四章:託された想い
「こっちだ!」
月城は莉奈の腕を掴み、ラボの奥にある隠し通路へと走った。警報が鳴り響き、緊急シャッターが次々と降りていく。クロノス・ダイナミクスは、もはや巨大な迷宮であり、罠と化した。
「一体どういうことなの!あなたは、会社と敵対していたというの?」
「私は、水瀬先生の技術を、純粋に医療目的で完成させたかった。妹のような人間を救うために。だが、会社の連中は違った。彼らが興味を持っていたのは、技術がもたらす『支配力』だけだ。私は、リングを彼らより先に手に入れ、研究の主導権を握るつもりだった。だが、君がリングを渡さなかったことで、彼らは実力行使に出てきた」
月城の顔には、焦りと後悔が滲んでいた。彼の野心と、会社への反発心。その全てが裏目に出てしまったのだ。
二人は、ビルの地下にある緊急脱出ポートを目指していた。だが、追手は執拗だった。重装備の兵士たちが、行く手を阻む。
「私が彼らを引きつける!君は、そのリングを持って逃げろ!」
「そんなことできるわけない!」
「これは、もはや君一人の問題じゃない!水瀬先生が命を懸けて守ろうとしたものを、未来を、君が託されたんだ!」
月城は、莉奈の手に、一枚のデータチップを握らせた。
「これには、クロノスが秘密裏に進めていた非人道的な記憶操作実験の、全てのデータが入っている。これを公表すれば、奴らを止められるはずだ」
月城は、そう言うと、莉奈の背中を強く押した。
「行け!」
彼は、たった一人で追手に向かっていく。莉奈は、一瞬ためらった。だが、彼の覚悟を無駄にはできない。唇を噛みしめ、莉奈は脱出ポートへと走った。背後で、激しい銃撃戦の音が響く。
なんとか脱出ポッドに乗り込み、地上へと射出される。クロノス本社ビルが、あっという間に小さくなっていく。月城は、どうなっただろうか。莉奈の胸に、ずしりとした重い責任がのしかかる。託されたチップと、このアステリズム。
安全な場所を求め、莉奈は祖父の宝飾店へと向かった。事情を話すと、聡は全てを悟ったように、静かに頷いた。
「…やはり、そうなったか。遥の懸念が、現実になってしもうた」
「おじいちゃん、母さんはどうして死んだの? 本当に事故だったの?」
聡は、作業台の奥から、古びた日記帳を取り出した。それは、母・遥の日記だった。
「遥は、自らの研究が軍事転用されることに気づき、全てのデータを消去しようとした。だが、クロノスにそれを阻止され、研究室に軟禁された。彼女は、最後の手段として、アステリズムの記憶同調機能を暴走させ、研究室のシステム全体をクラッシュさせたんだ。…自らの命と引き換えにな」
それは、事故死などではなかった。母は、世界を守るために、自ら犠牲になったのだ。日記には、追い詰められていく母の苦悩と、そして、娘である莉奈への想いが、切々と綴られていた。
『莉奈、ごめんなさい。あなたと過ごす未来を、守ってあげられなくて。でも、これだけは信じて。私がこの石に託したかったのは、難しい研究データや、悲しい記憶じゃない。ただ、あなたを愛しているという、その想いだけ。この石が、いつか、あなたの道を照らす光になってくれることを信じて…』
涙が、日記のページに染みを作った。母が本当に遺したかったもの。その答えが、ようやく分かった。アステリズムは、母から娘への、時を超えたラブレターだったのだ。
その時、店の外がにわかに騒がしくなった。クロノス社の追手が、この場所を突き止めたのだ。
「莉奈、これを持っていけ」
聡は、店の地下室の隠し扉を開けた。「ここは、昔、遥が作ったプライベート・ラボに繋がっている。ここから逃げるんだ」。
聡は、店の入り口に、一人で立ちはだかった。まるで、仁王像のように。
「この先へは、一歩も通さん。私の、娘と孫の想いを、踏みにじらせてなるものか」
「おじいちゃん!」
「いいから、行け!」
莉奈は、涙をこらえて地下通路へと駆け込んだ。祖父の覚悟と、母の想い。二人の愛に守られ、今、自分はここにいる。託された全てを胸に、莉奈は暗闇の中を走り続けた。
地下通路の先は、古びた、小さな研究室だった。そこは、母・遥が、クロノス社に入る前に使っていた、始まりの場所。中央には、旧式のダイブ装置が、埃を被って静かに眠っていた。
莉奈は、決意を固めた。ここで、全てを終わらせる。月城から託されたチップのデータを公表するだけでは、根本的な解決にはならない。クロノス社は、また新たな技術を生み出すだろう。大元を断たなければ。母がそうしたように、アステリズムの力を使って、記憶技術の根幹を成す、クロノスのメインサーバーを破壊するのだ。
それは、世界中から「記憶を保存する技術」を奪うことを意味する。多くの人が、その恩恵を受けている技術を。だが、同時に、それは人の心を支配する危険な技術でもある。母が命を懸けて警告した、パンドラの箱。それを、閉じるのだ。
莉奈は、旧式のダイブ装置にアステリズムを接続した。指にはめたリングが、彼女の決意に呼応するように、かつてないほどの強い光を放つ。
「母さん、力を貸して…」
意識を集中させ、クロノスのメインサーバーへと潜行する。それは、物理的な場所ではない。ネットワークの海に浮かぶ、巨大なデータの城塞。世界中の人々の記憶が眠る、神の領域。
莉奈の侵入を、クロノスの防衛システムが感知する。無数の攻撃プログラムが、莉奈の意識体に襲いかかってきた。だが、その度に、アステリズムが蒼い光の障壁となり、莉奈を守る。
城塞の中心部、コアへとたどり着く。ここを破壊すれば、全てが終わる。莉奈が、最後のプログラムを起動しようとした、その時だった。
『待って、莉奈』
懐かしい、母の声が響いた。コアの中から、遥の姿をした光の残像が現れた。それは、母がサーバーを破壊した時に、最後の置き土産として残していった、彼女自身の意識の断片だった。
『技術そのものに、罪はないわ。それを使う、人の心が問題なの』
「でも、このままじゃ、母さんみたいに犠牲になる人がまた…!」
『だからこそ、あなたが示すのよ。この技術の、本当の可能性を』
遥は、優しく微笑んだ。
『記憶は、人を縛るためのものじゃない。過去を保存するためだけのものじゃない。未来へ、希望を繋ぐためのものなの。あなたは、月城君の心を救った。壊れた記憶を、癒しの力に変えた。それこそが、私が本当に夢見ていた、この技術の姿よ』
母の言葉が、莉奈の心に染み渡る。破壊ではない。創造。そして、癒し。それこそが、自分の役目。
『アステリズムの本当の力を見せてあげる』
遥の光が、莉奈の意識と、アステリズムと、一つに重なった。リングから、温かい光が溢れ出し、ネットワーク全体へと広がっていく。それは、破壊のエネルギーではない。慈愛に満ちた、癒しの光。
クロノスのサーバーに保存されていた、世界中の人々の記憶。その中にあった、悲しみや、苦しみ、後悔といったネガティブな感情のデータが、その光に触れて、少しずつ浄化されていく。思い出は消えない。だが、それに伴う痛みだけが、和らいでいく。まるで、傷口が癒えるように。
世界中の人々が、同時に、不思議な感覚を体験していた。過去のトラウマに縛られていた人が、ふっと心が軽くなるのを感じた。愛する人を失った悲しみを抱えていた人が、温かい思い出だけを胸に、涙を流した。それは、アステリズムが流した、「癒しの涙」だった。
最終章:蒼穹の未来へ
莉奈が意識を取り戻した時、世界は変わっていた。
クロノス・ダイナミクスは、月城がリークしたデータと、サーバーに起きた謎の現象によって、その権威を失墜した。非人道的な実験は白日の下に晒され、会社は解体。記憶技術は、国際的な厳しい監視下に置かれることとなった。
月城は、罪を償うために自ら出頭したが、情状酌量が認められ、数年後に、新たな記憶技術研究機関の顧問として迎えられた。彼の研究テーマは、かつてのような「完全な保存」ではなく、「精神的な癒し(メンタル・ヒーリング)」へと変わっていた。
聡は、店に押し入った兵士たちに怪我を負わされたものの、命に別状はなかった。今は、静かに引退生活を送っている。
そして、莉奈は、「記憶修復師」としての仕事を続けていた。だが、その意味合いは、以前とは大きく変わっていた。彼女は、単にデータを修復するのではない。アステリズムの力を借りて、人々の心の傷に寄り添い、悲しみを乗り越える手助けをする、「魂のカウンセラー」となっていた。
あの日、母の意識の断片は、役目を終えたかのように光の中へと消えていった。アステリズムは、今も莉奈の指で、穏やかな光を放ち続けている。それはもう、母の記憶が詰まった形見ではない。母から受け継いだ、愛と希望の象徴。そして、莉奈自身の未来を照らす、道しるべとなっていた。
ある晴れた日、莉奈は、依頼を終えてクライアントのビルを出た。空を見上げると、一点の曇りもない、蒼穹が広がっている。まるで、アステリズムの瞳のような、深く、優しい青色。
莉奈は、そっと左手のリングに触れた。
(母さん、見てる? この世界は、まだ悲しみで溢れているけど、少しずつ、前に進んでいるよ。あなたが、そして多くの人が命を懸けて繋いでくれたこの未来を、私は、私のやり方で、もっと温かい場所にしてみせるから)
風が、莉奈の髪を優しく撫でた。それは、まるで、天国にいる母からの、優しい返事のようだった。莉奈は、空に向かって、そっと微笑み返した。失われた記憶の旅は終わり、彼女は今、自らの足で、未来へと歩き出す。その指に、蒼穹の瞳の輝きを宿して。