以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
私の最初の記憶は、静寂と、ヴェルヴェットの深い闇、そして一点の光だけだった。職人の厳格な目がレンズ越しに私を覗き込み、最後の石が、私の体にそっと埋め込まれる。カチリ、という微かな音。それは私の産声だった。彼は私をピンセットでそっと持ち上げ、息を吹きかける。その吐息が、私という存在をこの世に確定させた。
工房の台帳に、私の名前が記される。「R5435」。感情の欠片もない、無機質な記号。それが私のすべてだった。私の体は、最高級プラチナ950無垢リングとして成形されていた。それは時代の流行に左右されない、絶対的な純粋さと剛性を持つ金属。熱にも酸にも決して侵されず、その白銀の輝きを永遠に失わない。その腕に抱かれていたのは、寸分の狂いもなく選別され、配置された天然上質ダイヤモンド。合計でちょうど1.00ct。中央に鎮座する大粒のダイヤの列を、より小粒なダイヤたちが両脇から護衛するように並んでいる。そのデザインは、一つの川の流れのようでもあり、夜空に架かる銀河のようでもあった。縦幅7.4mmという存在感は、決して指先で控えめに収まることを良しとしない、強い意志の表れだった。そして私の総重量は3.8g。人の一生の重さに比べれば、あまりにも軽い。だが、これから私が背負うことになる物語の重さを、まだ誰も知らなかった。
私をその闇から選び出したのは、一人の若い男だった。名を、健司という。彼の目は未来への希望で満ち、その指先は夢の設計図を描くことで少し硬くなっていた。彼はショーケースの中で冷たい光を放つ私に、一瞬で心を奪われたようだった。
「これだ」
彼の声は、確信に満ちていた。店員が恭しく私を取り出し、黒い革のトレイの上に乗せる。その瞬間、周囲の照明が私の内に眠る光を呼び覚まし、無数の虹色の火花を散乱させた。画像の写真が切り取ったのは、まさにこの運命の出会いの瞬間だったのかもしれない。深い藍色の革のシボの上で、私は自らの内に秘めたすべての光を解き放っていた。
「素晴らしいリングですね。こちらは最高級プラチナ950無垢リングでございます。そしてこのダイヤモンドは、すべて天然上質ダイヤモンド。合計で1.00ctございます」
店員の言葉を、健司は恍惚として聞いていた。彼は私を手に取り、その3.8gの重さを確かめる。「軽いな。でも、この軽さに、僕の一生を賭けるんだ」。彼はそう呟くと、迷いなく購入を決めた。
私の最初の居場所は、明子という女性の左手の薬指だった。彼女の指は驚くほど滑らかで、サイズ11という私の内径に吸い付くようにぴったりと収まった。健司が箱をあけた瞬間、明子の瞳が私に映り込み、ダイヤモンドの輝きと一つになった。
「きれい……」
その声は、春の陽光のように暖かかった。縦幅7.4mmの私が彼女の指を飾ると、その白い肌が一層際立って見えた。それは単なる装飾品ではなく、二人の愛の城壁であり、未来への契約の証だった。
結婚生活は、私の輝きそのものだった。健司が設計した光溢れる家で、二人は笑い、語らい、時には些細なことで喧嘩もした。だが、夜には必ず同じベッドで眠り、明子の指にある私が、健司の手に触れる。プラチナの冷たさが、肌の温もりでじんわりと暖められていく。その感覚が、私という無機物に「幸福」という感情を教えてくれた。
私は、明子の一部だった。彼女が料理をするとき、私は小麦粉で白くなった。彼女が庭の花に水をやるとき、私は雫を浴びて虹を作った。彼女が娘の美咲を抱きしめるとき、私はその柔らかな産着に触れた。私のダイヤモンドのファセットの一つ一つに、幸せな記憶が刻まれていくようだった。1.00ctの輝きは、満ち足りた日々の光を映して、ますます強く、明るくなっていった。
だが、永遠に続くかと思われた光には、いつしか微かな翳りが差し始める。健司の帰りが、少しずつ遅くなっていった。彼の体から、知らない香水の匂いがすることがあった。明子は何も言わなかった。ただ、夜、眠れずにいるとき、彼女は無意識に私を指でなぞるのだ。その指先の動きは、かつてのような愛情に満ちたものではなく、何かを確かめるような、疑念と不安に満ちたものに変わっていた。
私の3.8gの重さが、彼女の心に重くのしかかり始めているのを感じた。7.4mmの幅は、もはや愛の城壁ではなく、彼女を閉じ込める檻の格子のように見えているのかもしれない。健司の視線が、時折、遠くを見るようになった。その視線の先にいるのが、自分ではない誰かであることを、明子は本能で感じ取っていた。
ある嵐の夜、二人は激しく口論した。健司の口から、別の女性の名前が漏れた。「今日子」という名前。その瞬間、家のすべての光が消え、私のダイヤモンドだけが、稲光を反射して青白く光った。明子は泣き崩れ、その手で顔を覆った。私は彼女の涙の塩分を、その冷たさを、はっきりと感じ取った。プラチナは変質しない。ダイヤモンドは傷つかない。だが、それを身に着ける人間の心は、あまりにも脆く、壊れやすい。
その日を境に、明子の笑顔から光が消えた。彼女は、まるで私が輝きすぎることを恐れるかのように、手袋をはめるようになった。私に刻まれた幸せな記憶の上に、静かな悲しみの層が、静かに降り積もっていった。R5435という無機質な記号であったはずの私は、いつしか「明子の悲しみ」という名前を持つようになっていた。
やがて明子は病に倒れた。日に日に痩せていく彼女の指の上で、サイズ11の私は少しずつ緩くなっていった。それでも、彼女は決して私を外そうとはしなかった。それは意地だったのか、それとも、かつて信じた愛の輝きを、最後まで手放したくなかったのか。
病室のベッドの上で、明子は成長した娘、美咲の手を取った。
「美咲……これを、あなたに」
そう言って、彼女は自らの指から私を抜き取り、美咲の掌に握らせた。それは、結婚式のあの日以来、初めて彼女の指から離れた瞬間だった。
「これはあなたのお父さんがくれた、大切なもの……でも、私には、重すぎたのかもしれない」
その声は、風のようにか弱かった。明子の肌から離れた私は、急激に熱を失い、本来の金属の冷たさへと戻っていく。その冷たさが、一つの愛の終わりを告げていた。
数日後、明子は息を引き取った。健司はただ、窓の外を眺めていた。その横顔に浮かぶのが悲しみなのか、それとも安堵なのか、美咲には分からなかった。美咲の掌の中には、私がいた。母の最期の温もりが、まだ微かに残っていた。天然上質ダイヤモンドは、病室の薄暗い照明の下でも、自らの力で光を集め、静かに輝いていた。それはまるで、母の涙の結晶のようだった。
美咲にとって、私は母の形見であると同時に、父の裏切りの証でもあった。彼女は私を身に着けることができなかった。サイズ11は彼女の指には大きく、そして何より、その3.8gに込められた母の年月の重みに耐えられなかった。彼女は私を、母の宝石箱の奥深く、ヴェルヴェットの闇の中へと戻した。私が生まれた場所によく似た、静かで冷たい闇。そこで私は、何年も眠り続けた。時折、美咲が箱を開けては、私をじっと見つめ、そしてまた静かに蓋を閉じる。その繰り返しだった。
健司は年老い、かつての精悍な面影は消え、口数の少ない老人になっていた。彼と美咲の間には、常にぎこちない沈黙が流れていた。母の死の真相に触れることは、二人にとって最大のタブーだった。
美咲が三十歳になった年、彼女は実家の整理をしていた。母が使っていた部屋で、古い木箱を見つける。その中にあったのは、手紙の束だった。几帳面な男の文字と、流れるような美しい女の文字。差出人は父の健司、そして宛名は「今日子」となっていた。
美咲は息を飲んだ。それは、母が亡くなるずっと前から、そして亡くなった後も続いていた、父と今日子という女性の間の、愛の言葉の連なりだった。父が母に隠していた、もう一つの人生。母が一人で耐え忍んでいた、孤独の正体。そのすべてが、そこにあった。
手紙を握りしめ、美咲は居間で新聞を読んでいた健司の前に立った。
「お父さん、これは何?」
健司は手紙を見て、すべてを悟った顔をした。彼はゆっくりと眼鏡を外し、長い、長い沈黙の後、静かに語り始めた。今日子との出会い、断ち切ることのできなかった想い、明子への罪悪感、そして二人の女性の間で引き裂かれ続けた、彼の半生。
「お母さんは……知っていたの?」
「……知っていたと思う。だが、彼女は一度も、私を責めなかった。それが、余計に私を苦しめた」
美咲は、宝石箱から私を取り出した。そして、父の前に差し出す。
「この指輪は、どういう気持ちで母に贈ったの?」
健司は、久しぶりに見る私に、怯んだような目をした。その1.00ctの輝きが、彼の罪を暴く光のように見えたのかもしれない。
「あの時は……本心から、明子を一生愛そうと誓った。この最高級プラチナ950のように、決して色褪せない愛を。このダイヤモンドのように、決して傷つかない絆を。そう、信じていたんだ。信じたかったんだ……」
老いた父の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。美咲は、その時初めて、父もまた、この指輪の重さに苦しみ続けてきた人間なのだと理解した。
私は、ただの愛の証ではなかった。それは、三人の男女の人生を縛り付けた、美しすぎる楔だったのだ。中央に輝く大粒のダイヤモンドの列は、二人の女性の愛を一身に受けながらも、どちらかを選ぶことができなかった健司。そして、その両脇で彼を支えるように輝く小粒のダイヤモンドの列は、妻という立場で耐え続けた明子と、日陰の存在で愛し続けた今日子。縦幅7.4mmの帯の上で繰り広げられた、一つの壮大な悲劇の縮図。それが、私、R5435の本当の姿だった。
美咲は、手紙に書かれていた住所を頼りに、今日子という女性に会いに行った。海辺の小さな町で、彼女は一人、静かに暮らしていた。想像していたような華やかな女性ではなかった。穏やかで、どこか寂しげな瞳をした、品の良い初老の女性だった。
美咲は、自分が誰であるかを告げた。今日子は驚いた様子も見せず、静かに彼女を家に招き入れた。
二人の間に、長い沈黙が流れた。美咲は、何を言えばいいのか分からなかった。憎しみ、怒り、悲しみ。あらゆる感情が渦巻いていたが、目の前の穏やかな女性を前にすると、そのどれもが意味をなさないように思えた。
「あの方が亡くなって……もう、十年以上経つのですね」
先に口を開いたのは、今日子だった。
「母は、あなたのことを知っていました」
「……そう、でしょうね。賢い方でしたから」
今日子は、遠い目をして窓の外の海を眺めた。
「健司さんを、奪うつもりはありませんでした。ただ、彼の心の中に、ほんの少し、私のための場所がある。それだけで、よかったのです。でも、それはきっと、奥様を……あなたのお母様を、深く傷つけたことでしょう。本当に、申し訳なく思っています」
彼女は、深く頭を下げた。その姿に、美咲はもう何も言うことができなかった。母を苦しめた女性。しかし、彼女もまた、父を愛し、その愛に苦しんだ一人の人間に過ぎなかった。
帰り際、美咲はバッグから私を取り出した。
「これは、父が母に贈った指輪です」
今日子は、その眩い輝きに、一瞬、目を細めた。それは、彼女が決して手にすることのできなかった光だった。
「母は、これが重すぎたと言って亡くなりました。父も、この指輪の重さにずっと苦しんできたのだと思います。そして、あなたも」
美咲は、自分の指に、そっと私をはめてみた。サイズ11は、やはり大きい。指の周りをくるくると回ってしまう。
「でも、不思議ですね。今、こうしてはめてみると、母が感じていた重さとは、違う重さを感じます」
それは、罪や裏切りの重さではなかった。母の忍耐、父の後悔、そして今日子の諦観。三人の人間の生きてきた証。そのすべてを内包した、歴史の重さだった。
「私は、この指輪を捨てることも、売ることもできません。これは、私の家族の物語、そのものだから」
美咲はそう言うと、今日子に一礼して、その家を後にした。
家に戻った美咲は、もう一度、私のことをじっと見つめた。R5435。天然上質ダイヤモンド1.00ct。最高級プラチナ950無垢リング。サイズ11。重量3.8g。縦幅7.4mm。その無機質なデータの一つ一つが、今や彼女にとって、かけがえのない意味を持つ言葉に変わっていた。
彼女は、リフォーム店に私を持って行った。サイズを自分の指に合わせて、小さくしてもらうためだ。
「この思い出ごと、私が受け継いでいく。母のように重荷に感じるのではなく、この物語を抱きしめて、私は生きていく」
新しく生まれ変わった私は、美咲の左手の薬指に、今度こそぴったりと収まった。プラチナの冷たさが、彼女の体温でゆっくりと温められていく。それは、遠い昔、母の指で感じたのと同じ、優しい温もりだった。
窓から差し込む光を受けて、私のダイヤモンドが、虹色の輝きを放つ。その輝きの中には、明子の優しい笑顔も、健司の苦悩に満ちた横顔も、今日子の寂しげな瞳も、すべてが溶け込んでいるようだった。
3.8gのプラチナとダイヤモンドは、今、三人の人生の重みを引き受け、それでもなお、気高く輝き続けている。私という一つの指輪を主人公とした、長く、そして複雑に絡み合った人間関係の物語。その終着点で、私はようやく、新しい主の指の上で、安らぎと、未来への光を見出したのだった。