普通では信じられない品を出展します!!
『アメリカの野球殿堂(クーパースタウン)で展示されていた実物』の里帰り。
この子を貴殿のコレクションハウスで展示なされませんか?
本品はルーブロックの持っていた世界一記録938個を上回ったの(同時に世界一!!)達成を見極めて名乗りを揚げたもの。福本氏はこの記録達製まで地道に一個一個盗塁数を積み揚げて来ました。
その福本氏、日本プロ野球界に打ちたてた盗塁数歴代日本一・・・じつに1065個。
福本さんとあのリッキーヘンダーソン、たとえてみれば福さんはじっくり偵察眼を駆使して確実に戦果(=盗塁数)を稼ぐ走者であったのに比べ、リッキーは出たとこ勝負、気持ちが高ぶらせたその勢いに任せてスタートの良さで一気にアウトかセーフかを決定してしまう主義でした。
対する福さんは冷静に投手の呼吸と気配を思い切り吸い込んで、これを分析し、トリックが巧くて牽制してくるのか…それともクイックでバッターとの勝負なのかを、知らぬふりをして次の一手を悟られぬようにする気配づくりの天才でした。
(けん制の上手さで定評のあった技巧派の投手)について「よくあのピッチャーさえカモにしていましたね~」とボクが感心していると,福さんは、
『いんやぁ~アレは、カモやったね』と笑い飛ばし、逆にランナーがいようがいまいが、どこ吹く風とばかり『ソやけどあのコのほうが、じつはカシコかったで、ホンマになに考えとったかよう判らんかたなぁ…んで、いきなりええけん制し酔ってねぇガンチュウにもワシんとこ気にもせんようにしとったクセにのう パっと牽制しよってねぇ(笑)』
でもですねぇ福本さん。投手が右ならともかく、”左”だったらやりにくかったでしょ右投手に背向けとるんじゃなくて、左じゃぁ顔剥けてなくちゃあかんから、バツが悪いじゃないですか(笑)。
『いや違うんだよマエノさん。オレは逆にお互いのカオ眺めながら…のほうが好きやったなぁ。』
「だって、相手だって福本さんの気配必死に読もうとしてきたでしょうよ」
『いやぁぜんぜんちがうんだなぁ(笑)』氏は、これだから”シロウトはこまっちゃうんだも~ン1”という和らいだ表情に
『逆に素直になるんだなあ…(笑)これが』氏はますます好物のビールが美味くてしようがないといったノリで語る。
『(ジロッと”お前ホンマの事言えよ)と、もう一度気持ちを込めたらもうウソはよう言わん』と今晩第一の笑顔を見せてくれた。
ボクが個人的にファンだった故人=村田兆治さんに話が移る。
彼は牽制球でも140㌔台のタマを1塁ベース上に放ってくるので、訊いてみたかった。
『アレはおいしかったよ。でも「あのフォームだろぶつけられたらタマランで」(笑) 本気出して「盗塁したろ」って思ってたら、アカンて。(笑)最初からそこらヘンはなぁ、お互いサマやで。お客さんもええ勝負、観に来てはるんや。ここンとこは「スキ見て行ったろう」とかやってつぶし合うもんやないって。』
福本さんも今年で78歳になられる。このユタカさんの野球談議はことのほか面白く、いつまでも日本プロ野球のお話を訊きつづけていたい。漆黒の闇のなか、カクテルライトに浮かび上がる日本の球場が大好きだ。あの場でゆっくりと話し続けて戴、そんな球界の至宝だ。
仔牛革からカンガルーの革に替え、ポリエチレン樹脂のソールの耐久性を度外視して軽いがモロい若牛製の革底へと美津濃の技術力を惜しげもなく注ぎ、本体重量を少しでも軽くして自己の持つ日本記録をリッキーの世界記録1406個に近づけようとした努力を、後進の若い世代は忘れないでいただきたい。重量軽減のため、ソールは接着するのではなく木綿の糸をつっ通して手縫いで”接着剤の重さ”を無くした。プロは『ソコまでやるのであった。うまいっ(笑)』
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後日談
福本氏がルーブロックの「盗塁数世界一992個」に手をかけると同時に、アドバイザリー契約先の美津濃はいち早く動いた。世界一の集まるクーパースタウンに同社の福本モデルスパイクが展示されるチャンスを得たため、記念展示をするとのという内示を福本より受け、m社に告げ特製のゴールデンスパイクの制作に取りかかる。ブロックは引退したが、ヘンダーソンはまだ若く、記録数がまだ伸びる発展途上にあったわけだ。これは宣伝するにもめったにない最高の舞台である。
数年後、福本にタウン側からの連絡が入り『ミスター・フクモトのスパイクの返還をお願いする』とのことだった。
『いや~「ナンバ-ツーのもん」には冷たいもんやねぇ。そういって宝塚市の福本は快諾した。』”とはいえ何といってもフクさん、【このシューズはまさに日本一のままで、世界でも第二位は揺るがない。】んですからね。
アウトカウントひとつひとつが支配する世界。
だが福本は淋しげにルールの残酷さを独り噛みしめるかおように、「たったひとつ」について悔しさをみしめているようだった。
それから二年後、意外なことにマエノがこれを預かって、東京で再スポットの当たる機会をさぐってみた。
これをもう一度、同じ品を作ってみろ…そう言って職人に完成させるとしたら、いったいいかほどの手間賃がかかることだろう。
★そっとフクさんからの裏話だが、氏は一人知れず、スパイクで勝負に臨む際のロッカーで”相棒”を履く際に《左足だけ親指の第一関節を最初から曲げて、福本は最後に左側を履いてきた》といったルーティーンを独り、引退まで守って来たと打ち明けた。