国籍不明、モデル不詳、親しみの持てるイイ感じだけど、はたしてこんな女性がいるものか。世につれ人につれ、好まれる顔や体型は変化する。時代が憧れる女性像を、鏡のように映し出すのがマネキンだ。大正期芸術運動を背景に京都で誕生した「島津マネキン」、目を見開いたままの全身を型取りする技術、シャネルやサンローランのマネキンの制作秘話、ウインドウ・ディスプレイの変遷…。魅力的な人体はいかにして作られるか。マネキン制作45年、斯界トップを行く原型作家が美の秘密を明かす。
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単行本でありながら豊富な写真資料も必見の一冊。
彫刻家、ファッション史、人形、スーパーリアル人形、ドール、マネキン愛好家、コレクター必携の大変貴重な資料本です。
【著者について】
欠田誠
1934年、東京都生まれ。京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)彫刻科在学中に二科展に出品、特待賞を受賞。卒業後の57年、七彩工芸(現・七彩)に入社、マネキン原型制作をはじめる。61年、二科展で二科銀賞受賞。64~65年、インターナショナル・コッペリア社の招きによりスペインで制作に協力。70年、七彩工芸の技術スタッフと目を見開いたままの人体を型取りする技術(FCR)の開発に成功。七彩工芸グループはこのスーパーリアル・マネキンで、71年、「視覚の錯覚」展を開催、75年、ジャパン・ショップ’75で技術開発賞、日本商工会議所会頭賞を受賞。七彩退職後、トーマネにてサンローランやシャネルのオリジナル・マネキン等を制作。ヤマトマネキンにて新スポーツマネキン等を制作。現在、トーマネにて原型制作に協力(刊行当時の情報です)
【目次】
はじめに
第一章 スポーツマネキン誕生記
既成のサイズを変える
アスリートの肉体
無敵のボディビルダー小沼敏雄
モデルのオーラ
第二章 人体を表現するということ
服を着せて完成する美
マネキンの市場
ディスプレイ・デザイナーとデコレーター
マネキンのサイズ
モデルはいるか
国籍不明の魅力
マネキンのミニチュア
シンメトリーはむずかしい
時代の好みの顏
マネキンのメーク
目の表情
第三章 日本のマネキンの歩み
「島津マネキン」の設立向井良吉の回想
ファイバー製マネキン
マネキンメーカーの変遷
新作展とアーティストの交流
ミニスカートとツィギー旋風
膝小僧の美学
海外からのマネキンの導入
ライフスタイルを視覚的に演出
不況時のヘッドレス・マネキン
マネキン産業の現在
企業ブランドか、作家の個性か
からだはファッション
第四章 私は企業内作家である
京都美大彫刻科のころ
七彩時代
マネキン供養祭
電飾ボディ
スペインで修業
マネキン制作に専念する決心
管理職の悩み
マネキン発祥の地・京都の技術者たち
韓国生産にまつわる少しにがい思い出
トーマネ時代
サンローランのマネキンを作る
シャネルのオリジナル・マネキンを作る
カールーラガーフェルドが好んだ顏
原型作家でありつづけるために
ヤマトマネキン時代
義眼とヘッドレス
上海のハワード・アーツ社
紙のエコマネキン
第五章 人間をまるごと型取りする
FCR技法の開発
目を開いた顔の型取り
自分の顔と対面
「視覚の錯覚」展
複製人間への招待
マネキンこそポップアート
街でモデル探し
マネキンは永遠に若く
岡本太郎マネキン
三宅一生が注目したスーパーリアル・マネキン
「現代衣服の源流」展とニューヨーク
第六章 二人の巨匠村井次郎とジャン=ピエール・ダルナー
村井次郎さんの思い出
「すぐに服が売れる」村井マネキン
生涯現役のマネキン作家
ジャン=ピエール・ダルナさんの思い出
パリ・プランタン百貨店のアート・ディレクター
一大センセーションをまき起こしたFFシリーズ
女らしさ、時代の好みへの敏感さ
もうパリの街中へは行かない
異なる二つの個性
おわりに
【おわりに】より一部紹介
マネキン史に残る名作といわれるマネキンでも、今日その現物はほとんど残されておらず、わずかに写真資料でしか知ることができない。近年、マネキンを収集しようという動きがあるが、昔のマネキンはなかなか見つけ出せないというのが現状のようだ。彫刻のように代表的な作品が美術館で保存されていたり、コレクターが大切に所有しているということがないこともあるが、もともと、マネキンは保存されるものではなく使われるものであり、よいマネキンほど使われる機会が多く、それだけに破損することも多い。最後は修理不能として破棄されるというのがマネキンの運命だ。
マネキンがファイバーで作られていた時代には、使えなくなったマネキンは燃やして丁重に「マネキン供養祭」で供養し、心の中に作品を残して、現物は残されることがなかった。精根こめて作ったマネキンを送り出す時は、自分の娘を嫁がせるような気持ちだと語るほど、作家は作品に強い愛着を持ちながら、作品を破棄することで、また気持ちを新たに次の制作に取り組むという心意気があった。
今年二〇〇二年で私のマネキン人生は四十五年になる。四十五年の経験は、ものづくりの世界ではけっして長いとはいえない。とくに職人の世界では、まだ鼻たれ小僧の域を脱していないといわれるかもしれない。私自身そんな実感が強い。
今までに三〇〇体ほどの原型を作ってきただろうか。不器用な人間でも、それなりにテクニックが(以下略)