
万葉集 湯原王 「月読つくよみの光に来ませあしひきの山き隔へなりて遠からなくに」
稲垣黄鶴(いながき・こうかく)
軽井沢出身の女流書道家
参照
月読(つくよみ)の光に来(き)ませあしひきの山経隔(きへな)りて遠(とほ)からなくに
月の光を頼りに逢いに来てください。あしひきの山が隔てるような遠い道ではないのですから…
この歌は湯原王(ゆはらのおほきみ)の詠んだ恋歌。
湯原王は志貴皇子(しきのみこ)の孫で男性ですが、ここでは女性の側に立って詠んだ戯れの恋歌となっています。
「あしひきの」は「山」に懸る枕詞。
この時代の男女の逢瀬は秘め事として、誰にも見られないように日が暮れてから男が女の家に通うのが普通でした。
この歌もそんな背景のもとで、男の来訪を待つ女性の立場に立って詠んだわけですね。
この歌の後に作者不詳の巻四(六七一)の唱和の返歌が付けられていることなどからおそらくは宴会の席などでの戯れ歌だったのだろうと思われますが、戯れの歌とは思えぬほどの志貴皇子の血を引く湯原王らしい繊細さを感じさせてくれる見事な恋歌のように思います。
「月の光を頼りに逢いに来てください。山が隔てているような遠い道ではないのですから…」とは、ほんとうに読んだ瞬間に月明かりの夜道が目に浮かんでくるような一首
湯原王 ゆはらのおおきみ 生没年未詳
志貴皇子の子。兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいる。壱志濃王の父。
叙位・任官の記事は史書に見えない。万葉集に十九首の短歌を載せるが、歌の排列からすると、いずれも天平初年~八年頃の作と見られる。天平前期の代表的な歌人の一人。
稲垣黄鶴(いながき・こうかく)
軽井沢出身の女流書道家
明治、大正、昭和、平成の時代に亘り、女流詞文書家(書道家)として活躍をし2007年103歳没
戦後も引場孤児を救済するために書で寄付金を集める。海外で個展を開き日本の書道を世界に広めました。長い間日本書道院副会長をつとめ、多くの弟子に書道を教える。退任後には日本書道院顧問(名誉理事)をつとめる。書道は岩田鶴皐に師事、得意としたのは近代詩文
・軽井沢町追分の泉洞寺に自筆句碑
・長野県美ヶ原自筆句碑
・愛知県宝飯郡一宮町金沢・長慶寺に自筆句碑
追分宿郷土館、泉洞寺(