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       【棒二森屋】
~水彩画・広告原稿~
☆・1925年頃・広告原稿・サイズ:6x8cm
   直筆・水彩画・デザイン・高級アクリル板付・鈴蘭の図案書き込み
    1994年2月28日まで当百貨店を運営していた会社(株式会社 棒二森屋)    中合運営時代は店名が中合 棒二森屋(なかごう ぼうにもりや)であった。  ☆・「金森森屋百貨店」は、1863年に長崎から函館へ移住して昆布など海産物の輸送を営んでいた    大分県出身の初代渡辺熊四郎が、1869年に函館市大町で北海道初の洋品店であった「金森森屋洋物店」    として創業。1925年12月に渡辺商事株式会社が、「四階楼」に時計台を配置した    鉄筋コンクリート造3階建の新店舗を建設して金森森屋百貨店を開業する。・・・・ 
☆・荻野清六。非凡な統率力と優れた経営手腕を併せ持った典型的な近江商人といえる逸材であった、
   初代棒二森屋社長、明治12年9月6日、滋賀県神崎郡栗見荘村(現・能登川町)字新宮に父儀平の長男として生まれる。
  儀平は、明治15年に渡道し、上磯戸切地で棒二荻野商店を開き、呉服を商う。
  北海道の開拓が進むにしたがい、函館の発展のめざましいことに着目し、明治22年、上磯店を閉じ、
  弁天町に棒二萩野呉服店を開業、後に地蔵町(現・末広町)に移転、函館随一の大店として栄える。
  清六は山本尋常高等小学校を卒業後、明治25年に家族とともに函館へ渡る。函館商業学校に学び後
  長じて老齢の父を助けて、家業に従事する。
   明治44年12月、清六は家督を相続し、卸部門の拡充をはかり、飛躍的発展に務め、声価が大いにあがり、
  函館の棒二として全道に知られるようになる。
  昭和9年3月21日、未曾有の函館大火に罹災し、店鋪も商品も全焼する。地蔵町の同所に仮店舗を開いたが
  大火後の人口移動と函館市の発展動向に注目し、函館駅前通りへ進出、百貨店を建設しようと目論む。
   昭和11年、末広町に近代的百貨店を経営していた、金森森屋と合併調印、株式会社棒二森屋を創立し、
  初代取締社長に就任する。翌12年10月1日、市内高砂町(現・若松町)に5階建の棒二森屋デパートを華やかに開店し、
  繁華街という地の利をしめ、函館市内はもとより、道南一帯を沸き立たせた。
 金森森屋は当時、函館において1、2を争う豪商初代渡辺熊四郎が明治2年洋物店金森を設立したのに始まる。
  昭和4年末広町に金森デパートとして鉄筋7階、建坪2000坪のビルを建てたが当時のお金で60万円を要した大規模なもので
 200人の店員を雇い1日の売上金は2万円と称された。特筆されることは、客送迎用25人乗りのフォードの配達用自動車を
 用意したことであった。
 以来、業績は大いに伸び、戦中、戦後の混乱期を乗り越え、デパート王国時代の到来とともに、その非凡なる統率力と
 抜群の経営手腕とをもって、目をみはる躍進を続け、当市デパート業界のトップを占めた。
正に典型的な近江商人魂を内に秘め、温厚篤実な風格をそなえた、稀にみる経営者であった。
公人としては大正9年より11年まで村民の興望により郷里の名誉村長に就任、大正13年より2期にわたり函館商工会議所議員に
当選、多年函館呉服商組合長の職に在り、函館区裁判所金銭債務調停委員、函館市所得税調査委員、地蔵町衛生火防副組長、
函館呉服商組合顧問、滋賀県人会長等の職にあった。趣味として囲碁、謡曲をたしなんだ。
昭和34年3月22日、棒二森屋全盛期に死去、享年79歳であった。
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◎・篠路:S72287.2021.6.24