*** 商品詳細 ***
~吉田松陰~
『月刊 松下村塾』
☆『月刊 松下村塾』
編者:月刊 松下村塾編集部
2004年・@約:48頁・\@:680円・約:A4判
本の状態など:表紙・本文は普通
発行:山口産業㈱
吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出した ことで知られる。
少年だった松陰も入門した。文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。
ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった。 長州藩の公立校である明倫館は武士身分の者しか入れず、それも足軽・中間など軽輩は除外されたが、 対照的に松下村塾は身分の隔てなく塾生を受け入れた。
塾生は約50名ほどいた。著名な門下生には、全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、 高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、
この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。
1858年(安政5年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した。
慶応二年にいったん再開し、馬島甫仙、河合惣太等が教授にあたる。
明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移した。
以後の塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されている。
萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問われたため、乱の鎮定後の
1876年(明治9年)に
責任を感じた玉木が
切腹し、再度途絶。1880年(明治13年)頃に松陰の兄の
杉民治が塾を再開した。
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◎・№80410 2024.12.21